朝鮮の三十八度線(85)
ソ米共同委員会の破綻(15)
一方かれらは、「南侵危機」説を流布して単独選挙の強行をたくらみ、八月六日、南朝鮮単独政府樹立にかんする「基本法」をつくりあげた。
こうした単独選挙強行策動に反対して、良心的な民族主義者たちは国の分断阻止活動をくりひろげた。
南朝鮮政治勢力関係のこのような変化に驚いた李承晩は、一九四七年七月十九日、卑劣にも呂運亨を暗殺した。
金奎植も「初代大統領」になることを拒んで、「単独選挙、単独政府」に反対する立場をとり、ホッジの妨害を蹴って、南北協商への道へと進んだ。当時、かれはこう語っている。
「あなたたちは八万五千平方マイルをいくらか超えるこの小さな空間に二つの一方的な政府をもつことになろう。それにそのようなことが歴史に起きれば、それは永遠に後世に伝えられ、永久化するであろう。するとあなたもわれわれも、北側半分と南側半分に朝鮮を分断した責任をとることになるであろう」
金九もまた韓国独立党と「臨時政府」系を率いて南北協商の道を選んだ。
アメリカは南朝鮮単独選挙を企図したことで、中間政治勢力をすべて失った。単独選挙にしがみついていたのは李承晩系だけであったが、かれらはテロをこととして南朝鮮社会で孤立した。