朝鮮の三十八度線(79)
ソ米共同委員会の破綻(9)
一九四六年十一月二十四日、ホッジはソ連軍司令官チスチャコフに、共同声明第五号の宣言に署名した人士、政党、大衆団体がソ米共同委員会の活動または同盟国のどの一国にでも反対したり、モスクワ決議に反対する積極的な進出を励ましあるいは扇動するようなことがあれば、共同委員会の協議対象からはずすという折衷案を送った(『朝鮮問題参考文献集』第一分冊二○~ニ一ページ)。二日後の二十六日、チスチャコフは共同委員会の活動をつづける基礎としてアメリカ側に、モスクワ決議を全的に支持する民主政党、大衆団体と協議するであろうと答えた。
こうして、共同声明第五号に署名した民主的政党・団体や人士の場合も、共同委員会の協議対象になれるのは、モスクワ三国外相会議の決議を支持する積極的姿勢に立つか、少なくとも反対しないものに限るという規定を双方が認定し、新しい協商の基礎がつくられた。
しかしソ米共同委員会は再開されなかった。アメリカでは一九四六年の一年間に米軍政が朝鮮で犯した失策を総括しなければならなかったのである。トルーマンは、朝鮮の実態を調査するために、一九四六年五月~六月、特使を朝鮮に送った。
南朝鮮の視察を終えた特使は、六月二十二日、『朝鮮の政事にかんする見解、結論および勧告』という報告をトルーマンに提出した。
そこでかれは、率直に言えば、朝鮮でのアメリカの立場をたいへん憂慮する、朝鮮はアジアにおけるアメリカの成功いかんを占う思想戦の場である、つまり敗亡した封建主義に挑戦して民主主義が勝つか、さもなければ共産主義が優勢になるかをテストする場所になるだろうと思う、と指摘した(『トルーマン回顧録(1)決定の年』二二四ページ)。