朝鮮の三十八度線(64)
一九四五年、失望と危機の年(8)
米軍が上陸した九月当時、人民委員会の積極的な活動によって、南朝鮮には武装解除されるべき日本軍は事実上存在せず、すべての地域で人民委員会が治安維持にあたっていた。ところが日本軍の武装解除を理由に南朝鮮に上陸したはずの米軍は朝鮮人の自治機構を解体し、独立と民主に向けて高まっていた大衆の熱意を冷ましてしまった。
米軍政令第二十一号は、日本帝国主義支配時代朝鮮の愛国者を絞首台に送ったすべての法令がひきつづき効力を有するとし、これに加えて五百余の法を新たに公布した。
南朝鮮占領米軍司令官ホッジは、戦敗国の日本とドイツに駐屯した米軍司令官マッカーサーとクレーと同等の権限を付与され、南朝鮮地域における主権は、日本やドイツのように米軍政長官に握られていた。ホッジの命令と布告は他のすべての法規に優先した。ホッジはただワシントンの上官と東京のマッカーサーに服従し、その活動に責任をとることになっていた。
実際ホッジは三年の軍政期間、南朝鮮で人民の基本的人権を無視して、令状なしに捜索、逮捕をおこない、裁判なしに刑罰を加え、市民の会話を盜聴し、郵便物を秘密裏に検閲するなどの行為をほしいままにした。
親日分子の抱きこみ政策は当然反ファッショ勢力の排斥をともなった。朝鮮の自主独立を「援助」するというアメリカの公約に期待をかけていた民族主義者も、かれらの占領政策に背を向けはじめた。
ホッジは十一月十九日のマッカーサーへの報告で、二か月間の軍政実施状況について、朝鮮人たちは即時独立を望んでおり、朝鮮でアメリカへの不満がつのっている、このような状況のもとでアメリカの地位は漸次弱まり、人気は落ちるであろうと述べた(南朝鮮雑誌『新東亜』一九八五年九月号、三○五ページ)。
朝鮮の南北間の差は国際社会におけるソ米間のイデオロギー対立の直接の反映であり、こうした政治的背景から朝鮮の「三十八度線」はいよいよ強固に定着し、北と南をいっそう閉塞状態へと追いこんだ。
アメリカはファシズムの牙城であり敵国であった戦敗国日本には片山社会党内閣を通じた間接支配をおこなったが、解放朝鮮ではあたかも敵国でもあるかのように布告、軍政令をもって軍政統治を実施した。
人類史にとって大きな意義のある歴史的な年として記録された一九四五年が、朝鮮人民にとっては民族分裂の危機の到来を告げる年になったのである。