朝鮮の三十八度線(63)
一九四五年、失望と危機の年(7)
一九四五年十月十六日、米国務省は、南朝鮮の米軍政庁に朝鮮人を「顧問」として引き入れ、国内問題で「諮問」を受けることに決定したと発表した(米国務省ブレティン、一九四五年十月十六日、四三ページ)。そして国務省と陸軍省は、在米亡命者のなかからアメリカに忠実だと目される人物を選んで南朝鮮へ送り込んだ。これについて在米朝鮮民族主義者の新聞『朝鮮独立』(一九五一年十二月五日)は、多くの朝鮮人、とりわけ朝鮮に統一政府を樹立しようとする亡命者はアメリカでパスポートを発給されなかったため祖国へ帰れなかったとし、南朝鮮に送る人物の選抜では米連邦捜査局が大きな役割を果たした、と書いている。
太平洋戦争終了後、アメリカは、在米の李承晩と在中国の金九を利用する問題で二の足を踏んでいた。それはかれらの政見が無分別、無定見であることから人民から見放されており、そのような人物を公然と支持するのは、アメリカの権威を損なうと見たからであった。しかし南朝鮮での民主勢力の伸張と右翼勢力の劣勢が動かしがたいものとなると、かれらを前面に押し立てはじめた。一九四五年十月十六日、マッカーサーの提供した軍用機で李承晩は南朝鮮に入りし、ついで十一月四日には李承晩系の朝鮮委員会集団が帰国した。
ホッジは、信頼のおける反共分子で英語に堪能な李承晩をまず「政治顧問」にしようとした。十一月二十三日には、金九、金奎植(キムギユシク)など「大韓臨時政府」の人物二十余名が同じく米国機でソウルに入りこんだ。そのさい中国国民党軍閥の訓練を受けた取るに足りない朝鮮光復軍も同時に帰国した。
米軍政は海外から帰った朝鮮人亡命者を「選挙前には代表として認められない」「個人の資格でだけ認める」と言明したが、一方米国務省はアメリカ帰りの李承晩とその一派および中国帰りの人たちを「民主主義思想の信奉者」だと喧伝した(米国務省ブレティン、一九四五年十一月八日、八一三ページ)。
李承晩は右翼政党団体代表二百余名との会合を開き、政党団体の統合機構、独立促成中央委員会(独促)を組織した。それによってかれは、「超党派的指導人物」になろうとしたのである。この過程で韓国民主党と李承晩系、そして米軍政庁警察部長趙炳玉と李承晩のタイアップが成立した。このようにアメリカは、政治的ライバルにたいしていささかの真実性も、自民族へのわずかの奉仕精神も責任感もない李承晩のような人間に依拠しようとしたのである。
米軍政は、地域別に行政権を行使し解散要求を拒んでいた人民委員会を強制的に解散させた。十二月十二日、ホッジは占領軍がこの団体にたいし必要な措置をとるであろうと声明を発した(『朝鮮問題』五三ページ)。