朝鮮の三十八度線(62)
一九四五年、失望と危機の年(6)
米軍の南朝鮮上陸後、米統合参謀本部の統合作戦計画委員会は、従来の朝鮮四地域占領案を米軍の南朝鮮進駐という新しい条件に即して修正した。
一九四五年九月十三日作成の計画では、北緯三十八度線を境界にして米ソ二か国が朝鮮を分割統治することになっていたが、十日後の九月二十三日、境界線を京畿道と黄海道、江原(カンウォン)道と咸鏡(ハムギョン)道の行政区域線に沿って設定することを勧告する修正案が自国政府に提出された。
しかし、道境界線による分割案は米軍の管轄地域をさらに北方へ押し上げることになるため、成立するはずがなく、結局三十八度線による分割案に落着し、米軍政は南朝鮮に反動的植民地統治体制を定着させるために、長期の総督機構として残ることを企図した。
南朝鮮につくられた米軍政機構がこうした政治的目的を持っていたことは、その設立直後の一九四五年九月十八日におこなわれたトルーマンの「朝鮮の解放に関する声明」によっても明らかである。トルーマンはそこで、南朝鮮で日本帝国主義軍警を利用するのは、かれらの「技術的能力」が「重要」であると思うからだとし、朝鮮の独立国家建設は「必然的に時間と忍耐力を要求するであろう」と語った(米国務省『朝鮮統一にかんする記録』ワシントン、一九六〇年、四六ページ)。
米軍政は解放朝鮮にとって不法なものであったが、アメリカはこの不法な軍政機構を維持するため、審判を恐れて戦々恐々としていた親日派、民族反逆者を利用しはじめた。米軍政はその統治基盤を右翼の韓国民主党に置こうした。「反共」を理念とする韓国民主党は、米軍の南朝鮮上陸に力を得た右翼反動勢力によって、九月十六日、ソウルの天道教記念館で旗揚げした政党で、アメリカの「保護」のもとで懲罰を免れようとする親日派集団であった。
十月六日、米軍政は十一人からなる民事・経済・治安部門軍政顧問会議を傘下組織にすると発表し、韓国民主党所属の右翼人物をそこへ引き入れた。親日派の金性洙が首席に、戦時中日本帝国主義中央政権の官吏で、総動員協会委員として日本の侵略戦争に積極的に協力した親日分子趙柄玉が警察部長に任命された。こうして米軍政傘下司法検察機関は韓国民主党に掌握された。
アーノルドは一九四五年十月十日に声明を発表して、三十八度線以南の朝鮮にはただ一つの政府しか存在しない、それはマッカーサー元帥の布告とホッジ中将の一般命令、および軍政の民政命令にもとづいて創設された政府である、と述べた。
他方アメリカは、その政治的基盤を強化し左翼民主勢力の影響力を弱めるために、アメリカと国民党中国から親米朝鮮人を呼び入れはじめた。