朝鮮の三十八度線(52)
米ソ妥協の申し子(4)
とにかくアメリカは、北緯三十八度線案をソ連側に納得させうる一つの根拠をもっていた。朝鮮駐屯日本軍の指揮権が北緯三十八度線を界線にして分かたれていたのがそれである。
一九四五年二月一日、日本大本営は「本土作戦に関する統帥組織」を改編して朝鮮駐屯日本軍の「朝鮮軍」を解体し、第一七方面軍と朝鮮軍管区を新設した。第一七方面軍は大本営直轄野戦軍で朝鮮の「防衛」を担当し、朝鮮軍管区は隊列補充、教育、兵站などを担当した。その後、ソ日中立条約が破棄され、ついでドイツが降服してソ連の対日参戦の可能性が強くなると、大本営はこれに対処して朝鮮中部以北の朝鮮軍管区を関東軍の指揮下に移し、第一七方面軍には朝鮮中部以南の「防衛」を担当させた。この作戦分担境界線がほぼ北緯三十八度線であった。
アメリカは、ソ連とアメリカが北緯三十八度線を界線にして朝鮮を分割し作戦を分担する案を提出するさい、関東軍の担当地域が北緯三十八度線までであることを根拠にしたのである(一九四八年、南朝鮮占領米軍司令官ホッジの公式発表)。
以上のような一連の「論拠」にもとづいて作成された北緯三十八度線案は、ブラッドリーなど陸軍省政策作成者の検討を受けたのち、陸軍長官と国務長官を経て、十三日と十四日、統合参謀本部で軍事的に研究された。三省調整委員会は八月十四日、この方案を承認し、当日トルーマンもそれにサインした。
連合国の武装解除分担線は、朝鮮ではなく、戦敗国日本の領土に引かれるべきであった。北緯三十八度線案は朝鮮半島とアジア大陸に勢力圏を広げる足がかりをつくろうとするアメリカの膨張主義的対外政策の申し子であったのである。
アメリカの三十八度線設定過程にかんする資料は、一九四九年六月十六日と十七日の米下院外交委員会公聴会記録を通してはじめてその一部が公開された。公聴会の速記録は二十七年後に全文公開された。
中国派遣米軍事代表ウェデマイヤーも、中国東北部と極東の重要な港を米軍がすみやかに占領するよう米統合参謀本部に電報で強く要求した(M・マトロフ『第二次世界大戦における米軍』ワシントン、一九五九年、三五四ページ)。
八月十五日米国務省は日本軍の降服受理地域分担案をソ連、イギリス、中国側に伝えた。同じ日、米統合参謀本部は同案をマニラにいるマッカーサーに打電し、それを米太平洋方面陸軍総司令官の一般命令第一号として布告するよう指示した。
他方トルーマンはマッカーサーを日本の降服を受理する全権を持つ連合軍最高司令官に任命するという声明を発表した。トルーマンはまたマッカーサーに、ソ連極東戦線軍の南下を阻止するため中国東北地方における赤軍の戦闘行動を中止させるよう指示した。
モスクワにいた米軍事使節団団長ディーンは八月十五日、ソ連軍参謀本部を訪ねて参謀総長アントノフに、攻撃作戦中止にかんするマッカーサーの命令書を手渡し、その命令がソ連極東戦線軍に伝達されることを望むと述べた。これにたいしアントノフは、ソ連軍の指揮権はソ連最高司令官スターリンに属する、と反駁した。ディーンは自分の「失策」を認め「謝罪」した。