朝鮮の三十八度線(48

 

北緯三十八度線―最初の公式記録文書(6

金日成主席は祖国解放をめざす主動的な作戦準備にもとづいて、一九四五年八月九日、朝鮮人民革命軍全部隊に最後の攻撃命令を下した。朝鮮人民革命軍部隊は総攻撃に移行し、ソ連軍と緊密な連携のもとに朝鮮に進撃した。

朝鮮人民革命軍主力部隊は敵が「難攻不落の防御線」と自負していた国境の各要塞を突破して、雄基(ウンギ)(いまの先鋒(ソンボン))、会寧(ヘリョン)方向に戦果を拡大し、国内の広い地域を解放した。他方、海から上陸した部隊は羅津、清津に進撃した。

また国内に派遣されて活動していた朝鮮人民革命軍小部隊と政治工作員たちは、広範な人民大衆を動員して日本帝国主義の統治機構を粉砕するなど後背攪乱作戦を果敢にくりひろげた。

ソ連軍は朝鮮人民革命軍の祖国解放作戦を支援した。ソ連太平洋艦隊司令部は朝鮮人民革命軍と協同し,十一日、中隊兵力の海軍陸戦隊を雄基と羅津に上陸させ、十四日からは陸戦隊一個旅団を清津に上陸させた(同上六五ページ)。そして陸地ではソ連第一極東戦線軍第二五軍司令官チスチャコフが海上作戦支援のため、第一戦線軍予備隊からその日第二五軍に配属された第三九三歩兵師団を朝鮮半島に投入した。第三九三師団は、十二日、豆満江を渡り雄基と羅津を経て十六日陸路清津に進出した。

当時日本軍の主力は陸軍であり、関東軍はその中心をなしていた。したがって、関東軍の急速な壊滅は事実上日本の敗北を意味した。日本は自国の敗亡が時間の問題であることを悟らざるをえなかった。無条件降服を拒否したヒトラ・ドイツにおける戦争犯罪人の悲惨な運命に戦慄した日本の戦争頭目たちは、あわてて降服する決心をした。

八月十五日正午、日本軍国主義の中心人物天皇裕仁はラジオで無条件降服の放送をおこなった。

八月十六日、トルーマンは戦敗国日本に提示する連合国軍各司令官の日本軍降服受理境界にかんする命令書草案をスターリンに送った。この文書は朝鮮民族を人為的に分裂させた北緯三十八度線について触れた最初の公式文書であった。

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