朝鮮の三十八度線(47)

北緯三十八度戦―最初の公式記録文書(5)

日本軍の護衛のもとに金塊を持って日本に逃亡しようと企てた 「満州国皇帝」溥儀は飛行機もろとも抑留された。関東軍司令部を長春から通化に移そうとした関東軍司令官山田乙三は捕虜になった。遼東半島、大連、旅順にソ連の落下傘部隊が降下した。
関東軍の急速な崩壊に直面した日本大本営は、満州全土を前進基地として持ちこたえることができなければその放棄もやむをえないが、帝国全般の戦況から見て、最後の一線朝鮮は絶対に手放せないとし、朝鮮半島を最後の決戦場とする作戦配備をおこなった。
大本営は日本本土軍管下の朝鮮駐屯第一七方面軍を関東軍に配属させ、その管下各師団を朝鮮南部地域からソウル以北地域にあわただしく移動させた。
ソ連軍の第一次作戦計画には、朝鮮への本格的な進攻が予定されていなかった。ソ連軍の作戦について当時の極東軍総司令官ワシレフスキー元帥は、戦争は百五十万平方キロメートルの面積と縦深二百~八百キロメートルに及ぶ地域、そして日本海とオホーツク海域でおこなわれるはずであった、計画では関東軍主力を分散、撃滅するため、中国東北地域の中心部に向かってザバイカル方面から同時に主力攻撃と補助攻撃を加える予定であったと述べている(同上二四ページ)。
対日作戦第一段階におけるソ連軍の第一義的関心事は在満関東軍主力が朝鮮へ退却して朝鮮駐屯日本軍と協同作戦をおこなうのを妨げ、関東軍の包囲殲滅に支障がないようにすることであった。のちに朝鮮解放戦闘に参加した第一極東戦線軍の本来の第一次攻撃目標は朝鮮ではなく満州国の首都長春方面であった。
第一極東戦線軍の左翼境界である朝鮮北部国境線上で行動したチスチャコフ大将の第二五軍はその後朝鮮に進入した部隊であった。当時第二五軍の第一の任務は、第一極東戦線軍の補助攻撃部隊として東満州一帯の日本軍防御地帯を突破したあと、日本軍の北部朝鮮への退路を遮断し、汪清、図們、延吉に進出することであった。第二五軍のその後の任務は、必要に応じ太平洋艦隊と協力して一部兵力を清津地区に上陸させることであった。実際においてソ連太平洋艦隊兵力の清津地域上陸は作戦開始後、太平洋艦隊司令官ユマシェフ提督がワシレフスキー総司令官に提起して実現したものであった。

 

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