朝鮮の三十八度線(45

 

北緯三十八度線―最初の公式記録文書(3

ソ連の対日参戦は太平洋戦争の終結を促した。ソ連はヤルタ協定の対日参戦義務にもとづいて、対独戦終結後三か月間シベリア鉄道の輸送力を総動員して膨大な兵力を極東に移動した。その結果ソ連は、アジア大陸で兵力と軍需機材の面で日本より優位に立った。ソ連は百七十四万七千名の兵員、二万九千三百八十五門の大砲と迫撃砲、五千二百五十両の戦車と自走砲、五千百七十一機の航空機、九十三隻の軍艦を極東戦線に展開した(エス・イワノフ『最後の勝利』モスクワ、一九八五年。イワノフは当時ソ連極東軍総司令部参謀長)。

七月末に具体的な作戦命令が下され、八月第一週には各部隊の戦闘準備が完了した。兵力の配備は極秘裏におこなわれた。

ソ連極東軍の目標は関東軍であった。関東軍は戦争末期に四十二個歩兵師団と七個騎兵師団、二十二個歩兵旅団、二個戦車旅団、一個特攻旅団、数個の独立連隊と二個航空集団軍からなる百二十余万の兵員と千二百十五両の戦車、六千六百四十門の大砲、千九百七機の航空機、二十六隻の軍艦を保有していた(同上)。その他「満州国」軍二十七個の師団と旅団が関東軍に含まれていた。関東軍司令官は関東庁長官を兼ね、その地域のすべての人的・物的資源を戦争遂行に動員しうる完全な権限を持つ実際上の統治者であった。南太平洋地域戦線の膠着後、日本帝国主義は関東軍の一部兵力を南方に転出させたが、関東軍の基本戦闘力はたいして弱化していなかった。

日本軍司令部はソ連軍の動きを注視したが、ソ連軍の徹底した秘密保持措置によって、極東におけるソ連軍の増強速度やその規模を正確につかめなった。

関東軍司令官山田乙三と日本軍司令部は極東ソ連軍兵力を三十~四十個狙撃師団程度と見て、関東軍の第一線防御地帯は突破できないと評価していた。ところが実際のソ連極東軍兵力は、三つの戦線軍に編制されており、その管下に十一個歩兵集団軍、三個航空集団軍、一個戦車集団軍、三個防空集団軍を保有していた。そして、そこに七十六個師団、四個戦車・機械化軍団、二十九個旅団が属していた。

一方アメリカは契約上の義務に従って、百万トンに達する各種軍事装備と燃料、食料、医薬品などの物資を太平洋ルートを通してソ連極東軍に輸送した。

ソ連の対日参戦準備は完了し、開戦は時間の問題となっていた。

一九四五年八月八日、モスクワ時間のちょうど十七時、ソ連外相モロトフはモスクワ駐在日本大使佐藤を外務省に呼び出した。モロトフは日本がポツダム宣言の無条件降服要求を拒否した実情のもとで、ソ連は一九四五年七月二十六日付けのポツダム宣言に加入して同盟国の対日戦への参加要請を受け入れることにしたと通告し、日本にたいするソ連の宣戦布告を伝えた。

宣戦布告は、ヒトラー・ドイツの降服後日本は戦争をつづけようとする唯一の列強であると指摘し、平和を早め、より多くの犠牲と苦痛から人民を解放し、ドイツが無条件降服拒否後こうむったような危険と破壊を免れる可能性を日本人民に与える唯一の手段として、ソ連政府は翌日、すなわち八月九日から日本と戦争状態に入ることを宣言した(『軍国主義日本の撃滅とアジアにおけるソ連の解放者的使命』朝鮮語版 四三ページ)。

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