朝鮮の三十八度線(93)
ソ米共同委員会の破綻(23)
アメリカはソ米共同委員会に代わる四か国協商案を持ち出し、イギリスと中国(国民党)を討議に引き入れることでソ連を牽制しようとしたのである。
モロトフは、一九四七年九月四日、アメリカ側に送った書簡で、民主主義臨時政府という全朝鮮的な単一権力機関を設けるかわりに、南北朝鮮で別々に臨時立法会議を設けようというアメリカの提案は朝鮮の分断を助長することになるであろうとして反対し、ソ連側がすでに提案した諮問機関―臨時朝鮮人民会議の創設にアメリカ側が同意するよう求めた(同上五三ページ)。
そして、民主的政党・大衆団体の活動の自由を束縛してはならないと強調し、米軍政が南朝鮮の民主的政党・大衆団体の人士を逮捕し迫害する行為に注意を喚起した。
アメリカ側は、両国代表団が合意した事項からまず実行しようというソ連の提案を拒否した。
アメリカ帝国主義は、数年前ルーズベルトが計画したフィリピン型後見制を、民主勢力の優勢な朝鮮でソ連との協商を通じて実現するのが不可能であることが明らかになると、計画通り極端な行動に移った。
こうしてロバートは、一九四七年九月十七日、米政府の意見は朝鮮の独立問題をつぎの国連総会に提出することであるとしてソ米共同委員会の機能停止をモロトフに通告した。
第二回ソ米共同委員会が再び決裂すると、一九四七年九月二十六日、ソウルでシュティコフ大将は、一九四八年初に朝鮮からソ米両軍を同時に撤退させ朝鮮問題は朝鮮人民自身が解決するようにしようという声明を発表し、後見問題と関連したアメリカの歴史的な行動を公開するとともに、後見制を実施することなく朝鮮人民自身が統一独立国家を樹立するよい方途は「両国軍隊の撤退」であると言明した。