「人民行き列車の切符」
一九八九年九月七日、金日成主席はイタリアのラジオ・テレビ放送会社のピオレ北京支局長に接見した。
席上ピオレ支局長は、長編記録映画『朝鮮――神秘と栄光』を制作したこと、主席の抗日武装闘争を素材にした小説を書くつもりであることを述べた後、主席が初期革命活動の時期、人民の中に入って闘争を展開したことについて話してほしいと言った。
主席は、人民大衆は革命の原動力であり、人民大衆をいかに目覚めさせ鍛え上げるかによって革命の成否が左右されると述べた。そして、遠い昔を回想するかのようにしばし言葉を切った後、以前、革命活動を行ったとき、農村にもしばしば出向いたが、農村には読み書きのできない人が多かった、それでわざわざ祭文の書き方や代書のやり方を習ったとして、こう言った。
「わたしは村へ出かけて、農民が祭文を書いてほしいと言えば書いてやったものです。わたしは代書もできました。代書というのは本人に代わって書類を書くことです。代書には、苦情申し立てや告訴、誰かを相手どって裁判を起こすということなどがありました。昔はこういった文章には、それぞれ文体というものがありました。それぞれの文章はそれにふさわしい文体で書かねばなりませんでした」
そして、祭文の話が出たので昔あったことを一つ話そうと言って、次のような話をして聞かせた。
主席が車光秀や桂永春など数人の青年共産主義者とともに農村で活動していたとき、ある農家に寝泊りした。
ある日、主席は午前零時近くになって帰ってきた。
主席が庭に入ってくると、軒下の土場に座っていた車光秀と桂永春が喜び勇んで駆け寄った。
主席がなぜまだ寝なかったのかと聞くと、車光秀がことのいきさつを話し出した。
車光秀たちが夕食を終えると、その家の主人が「先生方、明日はわたしの祖父母の法事に当たります。貧しい暮らしをしておりますが、供物の膳はなんとか準備したので、先生方が祭文を書いてくださるなら夜明けに法事を営みたいと思っています」と言った。
車光秀は即座に彼の願いを聞き入れた。しかし、実際のところ彼は祭文の書き方は全く知らず、桂永春が知っているだろうと考えて二つ返事で引き受けたのだが、桂永春も祭文については何も知らなかったのである。
二人は困りはてた。
台所では供物の膳の準備もすっかり終わり、祭文が仕上がるのを今か今かと待っていた。
桂永春は、ほらを吹いて人の法事を台無しにしたと車光秀を責め立てた。
「とんだ事になったもんだ。祭文の書き方を知らないためにこんな羽目になるとは夢にも思わなかった……」
車光秀はため息をつくばかりだった。
そんな時にちょうど主席が帰ってきたのである。
主席は、車光秀、桂永春ともあろう者がたかが祭文のことで頭を痛めているのかと声を立てて笑った。そして、自分が賃仕事をしよう、そのかわり代金は高くつくと冗談口をたたいた。
こうして、その家では主席が書いた祭文を立てかけて法事を営んだ。
法事が終わった後、家の主人は膳に載せてあった餅を山盛りにして持ってきた。
桂永春は、おかげで餅にありついたと頬をゆるませた。しかし、車光秀は餅の器を前に深刻な顔をしていた。
「桂同志、僕も君もまだまだ心の準備が足りない。もし、きょう祭文を書いてやることができなかったとしたら、どんなことになっていただろう。これは革命に身を投じたわれわれにとって看過できない問題だ。われわれはきょうのことを今後の教訓としよう。人民の中に入ろうとするなら、何でもやりこなす必要があるということを肝に銘じよう」
話を終えた主席は、あの時の車光秀の言葉は正しかった、革命家が人民の中に入ろうとするなら知らないことがあってはならない、博学多識、多才多能、これは「人民行き列車」に乗るための「切符」のようなものだと言って笑みを浮かべた。