女史の偉大な愛
朝鮮の母―康盤石女史(1892年~1932年)の貴い生涯には、金日成主席を愛国の道、革命の道へと決然と見送った多くのいわれが秘められている。
主席が中国の八道溝小学校の卒業を控えていたチュチェ12(1923)年初、金亨稷先生は息子を朝鮮に送って勉強させることを決心した。
朝鮮に生まれた男児なら当然、朝鮮をよく知るべきだ。おまえが朝鮮で、わが国がどうして滅んだかをはっきり理解するだけでも大きな収穫だ。故郷へ帰って、人民がどれほど悲惨な暮らしをしているかを体験するがいい。そうすれば、おまえは自分のなすべきことをおのずと悟るだろう。…これが息子を祖国に送る先生の志であった。
女史は息子のことが心配だった。
中国の八道溝から故郷の万景台までは100里、そのうち50里以上は人跡まれな山や峰のつらなる険しい地帯だった。
昼間にも猛獣が出没する樹林も通り過ぎなければならなかった。その険しい道程に、それも11にもならない息子を吹雪吹きすさぶ厳冬に一人で旅立たせるのだから心配するのももっともなことだった。
しかし、息子を一家庭の運命よりも国と民族の運命を救う愛国者、革命家に成長させる思いが強かった女史であったがゆえに、金亨稷先生が計画した日に息子を発たせようと、夜を明かしてトゥルマギ(周衣)とポソン(朝鮮の足袋)をつくった。父母の志を肝に銘じた主席が「学びの千里の道」に立った日は寒風吹きすさび風がたいへん強かった3月16日であった。
平壌の彰徳学校で勉強に励んでいた主席は、チュチェ14(1925)年1月、お父さんが再び日本の警察に逮捕されたという知らせを受け、学業を断念して「解放の千里の道」に立った。父の敵、一家の敵、朝鮮民族の敵を討つために生命を賭してたたかおうと決心し、寒風吹きすさぶ百里の道を歩いて八道溝の家に入ったのはすでに日が暮れていたときであった。
息子と手短に話を交わした女史は夕食を用意し、ここは敵の監視がきびしいからすぐ発つようにといった。平素あんなにやさしくて慈しみ深い女史が、きびしい冬のさなかに100里の道を歩いて帰り、それも2年ぶりに会った息子を一晩も泊めずに、その夜のうちにまたほかへ発たせようとするのだった。実を言えば夜通しつもる話をしたいと思った主席だった。
万景台からほぼ15日ものあいだ歩いて帰り、旅装を解くいとまもなく、その夜のうちにまたそこを発たなければならなかった主席は、母のことが頭にこびりついて離れなかった。
その日、両国の暗い氷の上を橇に乗って行きながら、主席は実に革命の道は平坦な道ではなく、また母の愛も平凡なものではないと思った。
主席が反日人民遊撃隊を創建し、南満州遠征の準備を進めていた時、長い間重病を患っていた女史の症状はたいへん危篤だった。主席は女史が数日間も食事もろくにとれないと聞いて家を訪ねていった。
その晩、12時過ぎまで息子と革命活動について語り合いながらも女史は家のくらしや自分の容態にふれると一言、二言答えてはすぐ話をそらし深入りするのを避けた。
家の様子が気がかりで山に登って柴を刈ってきた主席に、女史はきびしい口ぶりでこういった。
「親孝行をしようという気持はありがたいけれど、わたしはそんなことで心が晴れはしない。…おまえにはもっと大事なことがある。それはお父さんの遺言を守ることなんだよ。わたしよりもっと苦しい思いをしている朝鮮人はいくらでもいる。だからわたしの心配はしないで、早くおまえの道を行くのだよ」
翌日、女史は男のふところには急場に使うお金がなくてはならないものだとして20円を取り出した。洗濯や裁縫の賃仕事をしながら、自分のためには薬一包、米一斗買わずに1 銭、2 銭と蓄えた金であった。
主席は、女史に別れを告げてからも足は村はずれに向かうのでなく、家の周りを何回も回った。そのような息子を女史は厳しく叱った。
「国を取りもどそうと決心した人間が、そんな弱気になって家のことでくよくよするようでは、どうして大事をなしとげられるというの。おまえは家のことを心配する前に、獄中にいる亨権叔父や晋錫伯父のことを考えるべきではないか。奪われた祖国を思い、民衆を思うのだよ。日帝に国を奪われて22 年にもなるのに、おまえが朝鮮の男児なら大きな心をもって、しっかりと第一歩を踏み出すべきではないか。この先、おまえが母さんのことを気にしてここへ来るというなら、二度と門前にあらわれてはいけないよ。わたしはそんな息子には会わないから」
これが主席と康盤石女史との永別であった。
その後、主席は祖国と民族のためのあの厳しい、試練に満ちた日び、苦境に遭遇するたびに南満州へ送り出したときの女史の言葉を思い出して意志を固めたものであった。
実に、主席に対する康盤石女史の愛は単純な母性愛ではなく、真の母の愛、革命的な愛であった。