主体108(2019) 12月 6日

朝鮮の三十八度線(44

 

北緯三十八度線―最初の公式記録文書(2

そのころ、トルーマンはポツダムでスターリン、チャーチルとともに戦後処理問題について会談をしていた。七月十七日、ワシントンから「丈夫な男子誕生」という原爆実験成功を知らせる暗号電文がポツダム会談に参加中の陸軍長官スティムソンに届いた。スティムソンの報告を受けたトルーマンはそれをソ連に公開することにした。原子爆弾が米ソ外交で威力ある後ろ盾となると見たのである。七月二十四日、トルーマンはスターリンに、「巨大な破壊力を持つ新型兵器」が開発されたと告げた。ところが、大きな興味を示すだろうとの期待を裏切り、スターリンは平然としていた。それはトルーマンを驚かせた。

当時スターリンは、ソ連の情報筋を通して、アメリカのマンハッタン計画とその見通しをすでに知っていたのである。スターリンは宿所に帰ると、原子爆弾研究チームの責任者クルチャトフ院士を長距離電話で呼び出し、研究に拍車をかけるよう指示した。

トルーマンは軍事顧問たちを集め、アメリカの原子爆弾独占という新情勢に対処した行動方針を討議した。かれらは原爆の威力が巨大ではあるが、まだその実際の効果は確認されていなかったため、従来の軍事行動方針をただちに変更する必要はないという結論を引き出し、既存の軍事作戦計画をそのままおし進めることにした。

しかしかれらは、ソ連の対日参戦の意義を見直し、それがいまでは米軍の北上作戦を助ける補助的役割を果たすにすぎず、戦争の結末に影響を及ぼす要因には決してならないと見た。ところが、そうした情勢判断と力関係の評価は主観的なものにすぎなかった。アメリカの週刊誌『US・ニュース・アンド・ワールド・リポート』は米陸戦隊の日本諸島上陸を保障するだけでも九個の原子爆弾が必要であったが、実際は二つしかなかったと報じている。

ポツダム会談に出席していたトルーマンは、西太平洋の気象条件が許すとき原子爆弾を日本に投下するよう命じた。これにもとづいて、八月六日、最初の原爆が広島に投下され、二十五万七千名の平和な住民を殺害した。三日後に長崎に二つめの原爆が落とされ、二十万名の死傷者を出した。

ポツダム会談を終えて海路帰国中、スティムソンから原爆投下の報告を受けたトルーマンは、これは歴史上もっとも重大な出来事だ、われわれが家に帰れるときが来た、と大声で叫んだという。

しかしトルーマンが壮語したように、原爆は日本の敗北に決定的役割を果たせなかった。米大統領軍事顧問の海軍提督ウィリアム・レイは、原爆は対日戦で決定的な力とはならなかったと語った。チャーチルも日本の運命が原爆によって決定されたと考えるのは誤りであると述べている。

日本帝国主義は、広島への原爆投下後も、スイスを通して米政府にポツダム宣言の無条件降服要求を拒否する覚書を送った。

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