主体108(2019) 12月 12日

朝鮮の三十八度線(37)

 

単独進出は政治的に望ましくない―米ソ外交戦(7

アメリカはソ連の対日参戦を促すためソ連沿海州への軍需物資供給に力を注ぎ、五月には七十八万一千トンを輸送しているが、これは戦時の最高水準であった。

当時ソ連も対日参戦の時期が来たと認めた。スターリンは、五月二十八日、トルーマンの特使ホプキンズと会い、八月八日までにソ連の参戦準備が完了するだろうと述べた(『軍国主義日本の撃滅とアジアにおけるソ連の解放者的使命』朝鮮語版 一〇ページ)。

八月八日は、ソ連が対独戦で勝利してから三か月たつ日であった。ソ日中立条約破棄後ソ連の動向を注視していた日本支配層内部では、「本土決戦」を主張する主戦派に比べて無条件降服の回避と講和条約の締結を主張する講和派が優位を占めていた。

一九四五年六月十八日、日本の最高戦争指導会議は、敵側が無条件降服を譲らないかぎり、戦争をつづけるほかないが、抗戦力をかなり保持しているいま中立国とくにソ連を介して講和を提議し、最小限日本の君主制維持に努めるという旨の決議を採択した。

ヤルタ会談でソ連の対日参戦が決定されたことを知らなかった日本は、六月末、特使をモスクワに送り、対ソ交渉を通して赤軍の対日開戦を防止すると同時に、ソ連政府の仲介で米英側と講和条約を結び、太平洋戦争を終結しようとはかった。天皇は元首相近衛文麿を特使に任命し、駐モスクワ大使佐藤を通じて、七月二十五日、ソ連外務省に特使派遣の意向を伝え、ソ連側の同意を求めた。

しかし当日スターリンとモロトフはポツダム首脳会談に出席していた。そして翌七月二十六日には日本に無条件降服を要求するポツダム宣言が発表された。一九四五年七月十七日から八月二日までベルリン郊外のポツダムでおこなわれたソ米英首脳会談では戦後のヨーロッパ問題とともに、ソ連の太平洋戦争参加問題が重要議題として討議されたのである。

すでにソ連はヤルタ会談の決定にもとづいて、ソ独戦争終結後多くの兵力と装備を極東に集結し、対日戦の準備を急いでいた。

ところがそのころ米英側は、軍事的にはソ連の対日参戦を強く要請しながらも、政治的にはそれを喜ばないという矛盾した態度をとっていた。それは、ソ連の対日参戦が、戦後アジア問題の処理でその影響力と発言権が増大するものと憂慮したからであった。日本本土はもとより朝鮮と満州における独占的地位を狙うアメリカにとって、それはきわめて好ましくないことだった。

しかしまだ日本が膨大な兵力を温存している状況のもとで、ソ連の参戦なしには日本の壊滅は望めなかった。太平洋方面総司令官マッカーサーは、日本にたいする勝利は日本陸軍を撃滅する場合にのみ可能であるが、西側とその同盟国にはそれだけの能力がないから、ソ連の対日参戦実現に最善を尽くすよう政府に求めた(『極東における勝利』朝鮮語版 一九ページ)。

こうしたいきさつからトルーマンは、ポツダム会談でソ連の対日参戦を積極的に要請した。これにたいしスターリンは、ソ連の対日参戦を決めたヤルタ協定の正確な実行を再確認した。

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