主体108(2019) 12月 6日

朝鮮の三十八度線(35

 

単独進出は政治的に望ましくない―米ソ外交戦(5

ヤルタ首脳会談後、ソ連は対日戦の準備を本格的におし進めた。一九四五年四月五日、ソ連外相モロトフは駐ソ日本大使に四年前締結されたソ日中立条約の破棄を通告する覚書を手渡した。そこでは、日本がソ連と戦うドイツを支援し、またソ連の同盟国米英両国と戦っている状況のもとで、ソ日中立条約はもはや意義を失いその延期が不可能になったと指摘されていた(『祖国戦争時期ソ連の対外政策 文献と資料』 第三巻、モスクワ、一九四七年、一六六ページ)。

こうしてソ連と日本の中立関係は終わりを告げ、随時戦争状態に入りうる前提がつくられた。

ファシスト・ドイツの敗亡後も南太平洋上の日米戦線では膠着状態がつづいた。当時アメリカは対日戦の前途がかなり暗いものと見ていた。

一九四五年七月、米陸軍参謀本部情報課は日本の兵力について、日本本土二百万(航空機七千機)、満州の関東軍百万を基本とする中国、台湾、朝鮮駐屯軍計二百万以上、インドシナ、タイ、ビルマに二十万以上、インドネシア、フィリピンに五十万以上、米軍後方の太平洋諸島に十万、総計五百余万と推算した(デ・エフィモフ『第二次大戦とアジア・アフリカ人民の運命』モスクワ、一九八五年、朝鮮語版 九三ページ)。

そのうえ、日本の兵力は徴兵によって急速に増加するものと見られていた。

当時南太平洋海域の米海軍兵力は日本の五~十倍であったが、陸軍は三十六個師団、五十五万名程度にすぎず、大規模な上陸作戦を遂行するには不十分であった(エル・ウノトチェンコ『極東における勝利』モスクワ、ア・ベ・エン出版社、一九八五年、朝鮮語版 一六ページ)。

太平洋上の広大な地域に展開している米軍部隊を主攻撃方向に集中するためには、他の島にいる日本軍にたいする封鎖を解かなければならなかった。そのころ日本は本土戦にそなえて全国に総動員令を下していた。そして日本軍参謀本部は、米軍が一九四五年中ごろに本土上陸作戦を開始するものと見て、日本、満州、中国に堅固な要塞を築き、長期戦の計画を立てていた。日本の長期戦計画には国民皆兵と国家経済の完全統制が見越されていた。日本政府は同盟国ドイツの壊滅二日後の五月十日、ヨーロッパ情勢が変わっても日本帝国の戦争目的には変わりがないと声明した。

細菌戦の準備は日本帝国主義の長期戦計画で要の一つであった。天皇と陸軍省の秘密命令によって、一九三六年、関東軍司令部がつくった「死の工場」(複数)には、すでに数百トンの細菌が備蓄されていた。日本軍最高司令部は、細菌戦の準備を急いで、一九四五年四月、少将石井四郎を長とする細菌戦部隊第七三一満州部隊と第一〇〇部隊に、細菌の生産を最大限におし進めるよう命令した。それらの部隊では約三千名の殺人集団が細菌兵器の生体実験に従事していた。

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