主体108(2019) 12月 12日

朝鮮の三十八度戦(30)
 

四列強共同占領案(2)

アメリカのこの計画は無条件降服をした戦敗国で実施される過酷な占領制度以外の何物でもなかった。

当時、アメリカにはヨーロッパ地域のファシスト植民地にたいする戦後処理方式として、四列強によるオーストリアの分割占領を提案した前例があった。対独戦末期、米英側はソ連軍がオーストリアの首都ウィーンに先に入城するとこの国を分割占領する案を持ち出した。こうしてオーストリアの全領土と首都ウィーンを、ファシスト・ドイツ領土の占領方式と同じように、米英ソ仏が分割して占領する協定が締結された。

当時、アメリカとイギリスのオーストリアにたいする利害関係は異なっていた。アメリカはオーストリアをその勢力圏内にある諸カトリック教国の核心にしようとし、イギリスはオーストリアと南部ドイツを連合してダニューブ連邦をつくり、自らの影響下におこうとした。しかしそれらは米英軍がソ連軍より先にオーストリアを占領する場合にのみ可能なことであった。ソ連軍の急速な進撃によってそれが不可能になると、アメリカは一九四五年春、ベルンにいるアレン・ダレスをはじめ全ヨーロッパの諜報網を動かして赤軍が到着する前に、オーストリアにヒトラー・ドイツ帝国の保安隊長カルテンブルンナー(オーストリア人)を首班とする親米政権をつくり、かれらが国を米英軍に依託するようにしようとした。しかし、早くも三月にソ連軍がウィーンに入城し、社会民主主義者カール・レンナーを首班とするオーストリア臨時政府が樹立されたため、米英側はオーストリアの分割占領案を出したのであった。戦後ドイツ管理問題を米英側と協議して解決すべき大きな課題をかかえていたソ連はこれに同意した。こうして一九四五年八月九日、オーストリアの領土と首都ウィーンを四列強が分割占領するソ米英仏協定が結ばれ、オーストリア問題の解決をはかる連合委員会が創設された。またオーストリア管理協定が締結された。

しかし、アメリカがアジア地域で戦後処理方式の一つとして持ち出した分割占領案は、ヨーロッパの場合と比べて根本的な相違点があった。アメリカがヨーロッパではファシズムの残滓排除というスローガンのもとに戦敗国のドイツとその占領地域オーストリアにたいしともに分割占領することを主張したのにひきかえ、アジアでは当然そうされるべき戦敗国日本の分割は見送り、日本の植民地から解放された朝鮮だけを分割しようとしたのである。

一九四五年九月、米軍が日本を完全に占領すると、米統合参謀本部総合作戦計画委員会は、アメリカが戦時に反ファッショ連合の前に負った義務の不履行による責任の追求を恐れて、日本占領第二段階にソ英中三国の軍隊も日本の占領に参加させるというドイツ方式の処理案をトルーマンに提出した。しかし、トルーマンはこれを否定し、単独占領を強行した。それにもかかわらず、アメリカは、朝鮮の四地域分割案だけは既成事実としてそのまま実行しようとした。アメリカがヨーロッパで主張した「論拠」に従うならば、当然アジアでも戦争の発祥地であり、戦敗国である日本と、ファシズムの牙城東京から先に分割占領すべきであった。しかしアメリカは戦争末期の有利な情勢に乗じて日本を単独占領したのである。

朝鮮の分割占領案は日本の降服がアメリカの予想よりはるかに早く実現したためにそのまま実行されはしなかったが、計画そのものはオーストリアの分割占領案よりもひときわ過酷なもので、そこでは朝鮮の独立を認める問題は予定すらされていなかったのである。

 

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