主体108(2019) 12月 14日

朝鮮の三十八度線(28

 

米日の秘密交3

日本は本土作戦を準備する一方、なんとか有利な条件で講和をおこない、破滅を免れようと策した。近衛文麿ら以前の首相や外相たちは、一九四五年二月、天皇に、日本の敗戦が明らかになったこと、天皇制を維持するためには戦争を止め、米英と講和条約を結ぶべきだという趣旨の上奏を提出した。ここでかれらは、米英の世論はまだ日本民族の国家機構変更までは求めていないこと、民族の国家機構を保存する見地からすれば、敗戦に劣らず共産主義革命が憂慮され、敗戦後革命が起こりうると指摘した(『太平洋戦史』第四巻、モスクワ、一九五八年、一八三ページ)。

アメリカと日本はベルンとストックホルムで再び講和交渉の席についた。スイスのベルン駐在日本海軍武官補は、一九四五年四月二十三日、アメリカの諜報責任者アレン・ダレスと秘密裏に接触し、日米両国間の直接の休戦協商を申し入れた。かれの職階上このような慎重な問題をひきつづき扱うことはできなかったであろうが、そうした事前打診の結果が日本支配層の興味を引き、そのしばらくのちベルン駐在日本公使とダレスのあいだで政府クラスの交渉がおこなわれた。ここで日本側はダレスに、日本の無条件降服条件の変更、天皇制と憲法の護持、満州の国際的管理、日本による朝鮮と台湾統治の存続を講和条件として提起した。これにたいしアメリカは、天皇制の護持は認めうるが、日本の朝鮮統治はアメリカに移管されるべきであるとの立場を表明した(『第二次世界大戦末期日本支配層の政治的術策-歴史問題』 一九六〇年九号)。

アメリカは戦後日本が共産主義にたいする防波堤の役割を果たすべきだと見ていたが、朝鮮問題では決して日本に譲歩しなかった。五月八日のヒトラー・ドイツの降服後も、日本支配層は敗北を認めようとせず、なんとか米英両国と妥協して、カイロ宣言の要求する日本の無条件降服条件を撤回させようと試み、一九四五年五月、再びスウェーデン駐在米大使を通じてアメリカに非公式に講和交渉を申し入れた。このときも日本による朝鮮・台湾統治権の保存要求に変更はなかった。一方アメリカはカイロ宣言に規定された朝鮮・台湾条項を堅持し、朝鮮は当然アメリカの統制下に移されるべきだとの立場を守っていたが、会談の継続には応じた。

ソ連政府はアメリカ側が連合国の共同宣言に背いて日本帝国主義と単独講和交渉を進めることにきびしく抗議し、日本帝国主義が無条件降服するまで戦争をつづけるよう要求した。一九四二年一月一日、二十六連合国のワシントン宣言第二項には、敵との単独休戦ないし講和を締結しないと規定されていたし、一九四三年十月のソ米英モスクワ会談でも、そのことが確認されていたのである。こうして、無条件降服を避け、とりわけ戦後も朝鮮と台湾の占領継続でアメリカ帝国主義の同意を得ようとした日本帝国主義の企図は破綻した。

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