主体108(2019) 12月 6日

朝鮮の三十八度線(27)

 

米日の秘密交2

アメリカのそうした対日態度をよく知っていた日本は、かれらと交渉する道に乗り出した。一九四四年七月、東条英機のあとをついで内閣総理となった元朝鮮総督小礎国昭は、米英側との「名誉ある講和」のためのもっとも有利な環境はなによりも、同盟国ドイツの敗亡を防ぎ、ソ米英の反ファッショ連合に亀裂をつくることによって、太平洋上で彼我の力関係を対等にして得られると見た。

一九四四年九月、日本政府は中立関係にあったソ連にたいする外交対策を討議し、独ソ講和条約の締結、日ソ関係の改善、日本と蔣介石間の仲裁要請など一連の問題を協議するために、元首相・外相の広田弘毅を特使として派遣することを決定し、ソ連に同意を求めた。しかし、ソ連は、対独戦の中止はドイツの無条件降服によってのみ可能である、日本のそうした行為はドイツ救援の試みであるとして、特使の受け入れを拒否した。すると小礎国昭は元首相近衛文麿をいれ、スウェーデンを介して交戦国英米側と直接講和交渉を進めることにした。

九月中旬、『朝日新聞』社社長は以前から交際のあった駐日スウェーデン公使に会い、スウェーデン政府が日本政府の要請をアメリカ側に伝えてくれるよう要請した。このとき日本は、朝鮮と台湾を従来通り日本の所有として残すこと以外は、他のすべての占領地域とりわけ満州の放棄にも同意するとした。奸悪な日本帝国主義の最大の関心は天皇制の温存とならんで朝鮮の占領継続に集中されていたのである。この講和提案はスウェーデン駐在米公使ジョンソンに伝えられた。アメリカは日本の無条件降服を求めて、これを拒否した。ソ連の学者エル・クダシェフは、そのときジョンソンは朝鮮がアメリカの監督下に入らなければならないと語ったと書いた(エル・クダシェフ『第二次世界大戦末期日本支配層の政治的術策-歴史問題』モスクワ、一九六〇年九号)。同じくソ連の学者ベ・ボロンチョフはこの問題と関連して、アメリカの支配層は朝鮮を帝国主義の競争者に譲歩したくなかった、なぜならかれらは朝鮮をその完全な影響下におこうとしたからである、と書いた(『第二次世界大戦中朝鮮にたいするアメリカの計画』 九五ページ)。

しかし、日本帝国主義支配層は朝鮮を敵側に手渡すのをなんとか防ごうとした。かれらは朝鮮の植民地支配を維持するために偽善的な宣伝攻勢をくりひろげた。かれらは日本の出版物に「内鮮一体」という標語をかかげ、朝鮮は日本本土の一部であると喧伝した。朝鮮と台湾の政治的対策問題を研究する日本の一機関は、朝鮮人に「政治的権利」を与える「法令」を考え出す一方、在日朝鮮人の待遇を改善し、出国制限措置を撤廃するよう主張した。これは朝鮮人の不満をなだめ、「共栄圏」の平穏を守ろうとする日本支配層の下心を反映したものであった。もともと日本軍国主義は朝鮮支配の根本的方針を「内鮮一体化」、究極の目標を朝鮮の「四国化」「九州化」として規定していた。したがってかれらが朝鮮を手放すのは想像を絶する打撃であった。

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