主体108(2019) 10月 19日

変わらぬ走路

1986年12月、インドネシアの首都ジャカルタではアジア初の青少年陸上選手権大会が行われた。

その大会の女子3000m、5000m競走で朝鮮の一選手が優勝し、二つの金メダルを獲得した。彼女がほかならぬ、平壌市普通江区域青少年スポーツ学校陸上指導教員を務める功労スポーツマンのキム・チュンメである。

黄海南道新院郡で生まれた彼女は幼い時から競走をたいそう好きこのんでいた。

彼女が学校運動会で優勝するたびに、村の老人たちは、あの子は競走に勝って黄牛を受賞した若いときの父親そっくりだとして舌を巻いた。

彼女は1979年8月に行われた全国青少年体育学校のスポーツ競技大会で鴨緑江体育団指導員(当時)であったシン・グムダンの目に留まった。

当時、彼女はスタートラインに靴まで脱ぎ捨てて3000m競走に出場し真っ先に決勝テープを切った。自分と一緒に競走をやる気はないのか、というシン・グムダン指導員の言葉に彼女は同意しなかった。

その時を振り返り、彼女はこう語っている。

「正直に言ってその時、競走には成功がおぼつかなかった。それで体育大学を卒業して子供を育て上げる教員になりたいと言った。しかし、シン・グムダン指導員はあきらめず、1年後には私を体育団に連れて行った」

体育団で彼女は多くのことを体験した。

競走では誰にも負けないと思っていた彼女は初めから勝ちを制するという欲望ばかり抱き、先輩選手の競技戦術に引っかかって何度もひどい目に会った。とくに気に障ったのは、訓練を施す指導員が背が低いからといって補助選手の位置に立たせたことである。

当時、彼女の身長は155cmしかならなかった。

しかし、それに落胆したりしなかった。

それだけ、走路を走りたいという気持ちは強くなり、必ず勝つという熱望が彼女を奮い立たせたのである。

日がたつにつれ、両親や兄弟、母校の先生と村人の期待に報いるための努力のたまものが訓練日誌に記された。

その努力はすぐ頭角を現し始めた。

1983年第6回人民スポーツ大会の陸上種目1500m、3000m競走で再び二つの金メダルを獲得し、各国内競技でも優勝した。

1985年、ルーマニアの山中訓練基地で訓練に励んでいた彼女はある日、その国のTVから放映される朝鮮記録映画を見た。

それは彼女に祖国への懐かしさと故郷の思い出をつのらせ、翌日の国際競技での優勝に役立った。

その日、彼女が樹立した記録は当時の共和国新記録であった。

彼女はその後、自分の記録を更新し続けた。

その過程に、彼女は功労スポーツマン称号を受け、朝鮮体育大学を卒業し、後進を育成する青少年体育学校陸上指導教員になった。

昨年に行われた第55回全国青少年体育学校スポーツ競技大会で、彼女が育てたパク・ジュヒャンは400m競走で優勝した。

彼女は生徒たちにこう語っている。

「走路の長さに変化がないよう、走路を走る選手にも変心があってはならない。このためには走路に自分の精魂を注がなければならない」

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